【母の余命宣告】家族ができることとその後の人生で教訓になった一つのこと

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妻と子供3人をもつサラリーマン「たわー」です。
僕は8年前母親を病気で亡くしました。
ずっと元気だと思っていた母が、余命3か月ほどと言われた時(死ぬ1年前)、当時あまりのショックで心身のバランスを崩してしまいました。

母の体調の異変

9年前の12月。

異変に気付いたのは腰のケガでした。

母が、タンスの上の荷物を取ろうとしたとき後ろにバランスを崩して腰を強打してしまったとの連絡。
 

その後、下痢が止まらない、トイレに間に合わないなど

「どうした?感染症か?大丈夫か?」

仕事帰り実家に寄ったとき、今まで見たこともないしんどそうな母の顔が忘れられません。

当時まだ64歳です。

そうこうしている内に大きな病院へ入院することに。

母は僕が小学5年生のとき乳がんで入院したことがありました。

当時は何の病気かも分からず「お母さんがいない」という不安な気持ちだったことしか覚えていません。

入院したのはその時と同じ病院です。

大きくなってから「母は乳がんだった」と知らされましたが今は完治しているということでした。

ですが、本当は僕が大学生の時に再発しており、今まで薬を変えながら他の臓器に転移しないようやってきたようでした。

なので今回の入院が乳がんが悪化しての状態とは夢にも思いません。

入院してからも相当しんどそうでしたが、家で年越しできるよう大晦日に一時退院となりました。

父は何も教えてくれませんでした。
ただ母の状態を見れば見るほど
何かおかしいと感じていました。

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母の余命を突然知らされた衝撃

病院から電話がなり「今日一日くらいなら大丈夫だと思うが、服薬しているカルシウムの薬を渡せていなかった」
とのこと。

兄と二人で取りに行くことに。

薬の名前は「デノタスチュアブル配合錠」。
薬の知識がある自分は、ますますおかしいと思いました。

このカルシウム薬は、骨粗鬆症の人がプラリア(6か月に1回)という注射をうつときに低カルシウム血症を避けるため服薬するものです。

でも母は骨粗鬆症ではないと聞いていました。
「病院は何か隠しているのではないだろうか?」

到着した病院で医者を呼んでもらい兄と一緒に話を聞くことに。

すると・・・
「お父さんから本当に何も聞いていないのですか?」

そこですべてを聞かされました。

取りに来たデノタスチュアブル配合錠は、「プラリアという骨粗鬆症の人がうつ注射」と一緒に飲むカルシウム剤としての目的ともう一つ。

癌が骨転移した患者がランマーク皮下注という注射をうつとき低カルシウム血症を防ぐため一緒に服薬するものでもありました。

母は後者でした。

再発後の乳がんが肝臓・骨へも転移してしまっていました。

転倒したから弱ったのではなく骨転移していたから転倒し弱っていったようです。

いろいろな薬を試してきたがもう残されている薬がなくなってきているとのこと。
「あと3か月、もつかどうか・・・」

病院からの帰り、兄の運転する車で涙が止まりませんでした。

兄から「家に帰ったら絶対に泣き止め」と言われました。

人生最悪の大晦日

家に帰ると薬の副作用で激しい気性になった母が「遅すぎる。なぜ連絡一つできないのか!!」
と兄と僕をみんなの前ですごい剣幕で怒りました。

いつもの母なら自分の薬のために往復2時間近くかけて帰ってきた息子二人に叱責するなどありえません。

その姿があまりにも切なく悲しい気持ちになりました。

テレビからは新年を祝う希望に満ちた人たちや映像がうつっていました。

僕は「こんな最悪な年越しがあるのだろうか」「何がめでたいんだ」と、がくぜんとした気持ちでテレビを眺めていました。

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母の余命宣告を受けて家族ができること

 
この日から約1年後に母はなくなります。
 

ただ自分なりにはしっかりと母に向き合えた1年でした。

何か特別なことをしたわけではありません。
ただ、一緒にいる時間を増やしました。

仕事帰りに実家によって家事を手伝ったり。
一緒に夜ご飯をたべたり。
父と母と3人で話をしたり。

結婚する前は当たり前だった親との時間。
特に母のそばにいる時間を増やそうとしました。

母の余命宣告を受けてから亡くなるまで

母が笑ったところ
母が怒ったところ
母が取り乱すところ
母がしんどそうなところ
母が弱っていくところ
母が冷たくなってしまったところ

すべてを見守ることができました。
個人的には後悔はありません。

ただ、実家が遠くてなかなか会えない人も多いと思います。

そんな人は親に電話をしてみる。
あなたの声を届けてあげてください。
メール・ライン、孫の写真を送ってあげる。
休みの日、行ける日には顔を出してあげる。

それだけできっと嬉しいはずです。
何かをしてほしいのではなく、子どもが自分を想ってくれていると感じられることが嬉しいはずです。

僕が今、余命宣告を受けたとしても3人の子供たちに何かしてほしいとは思いません。

ただ、そばにいてくれる時間が増えたらうれしいな。
想ってくれていたらうれしいな。
それくらいだと思います。

どんな嫌な事があっても負けない気持ち

母の余命を知った日。

この人生最悪の日があったからこそしっかりと母に向き合えたと思うし、今の自分があると思っています。

日々の生活で落ち込むこと・腹がたつこと、7年たった今もいろいろあります。

でも、この日に比べたら全然大したことはありません。

「絶対に負けてたまるか。」
いつも自分に言い聞かせています。

※ 最後まで読んで頂きありがとうございました。

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41歳のランニング会社員「たわー」です。30代・40代・50代でダイエットのためにランニングを始めた人の悩みを解決できる記事を目指しています。モットーは「人生は有限・可能性は無限」よろしくお願いします。

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